【小学生向け問題編】第12問の答え
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(3) ところ芋の碑
天保(てんぽう)年中は天候不順(てんこうふじゅん)で、近隣周辺の村々でも農作物の収穫が激減、物価は高騰(こうとう)し、村人の中には食べるのも困るものが出ていました。
当時の市内に残る古文書、五日市の商人油屋重兵衛の日記によると、毎日のように雨が降り続いて 市(いち)も休む状態であることや、頼母子講(たのもしこう)の日掛けの集金も休むこと、また、夏だというのに綿入れを着るような寒さと書かれており大変な冷夏(れいか)でもあったようです。
戸倉村でも同じ状況で、すでに隣の村々では「ところ芋」を掘って食料の足しにしているのを知り、地元の村人達がいつでも山に入ってところ芋を掘ることができるように組頭全員と相談するため廻状(かいじょう)をまわしたのでした。
天保七年(1836) の大飢饉(だいききん)に際し、戸倉山中に自生(じせい)するひかい(「ところ芋」のこと)を他村より掘りに来た人々に対し、村人が反対するのにもかかわらず許して掘らせた 村長萩原恵亮(はぎわらけいすけ)の徳を 頌(たたえ)た詩文で、当時の光厳寺(こうごんじ)住職 栢岩(はくがん)によって書かれたものです。
【ところ芋はヤマイモ科の植物ですが、山芋(やまいも)、自然薯(じねんじょ) と違い、その根は苦く通常ではとても食べられるものではなかったのですが、飢饉で食べるものがない時、その苦みを取り除く工夫をして村人は飢(う)えを凌(しの)いだのでした。 】
「郷土の古文書その26「ところ芋掘り ニ付 相談のため集会廻状」
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電話: 公民館係 042-559-1221
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