戸倉地区
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戸倉01-36
諸神
文化八年(1811)
自然石。文字塔の道祖神。道祖神は少なく、市内には文字塔が6基あるだけである。内5基は旧五日市地域。

戸倉01-45
廻国・巡拝塔
明治三十二年(1899)
出羽三山、四国八十八ケ所、百番観音霊場、さらに立山、金華山にまで巡拝した驚異的ともいえる供養塔。

戸倉01-49
道標・道橋供養塔
安政四年(1857)
刈寄沢~逆沢(坂沢)~金剛ノ滝を経て今熊山に至る。今熊山信仰の道標の一つ。

戸倉01-59
その他
明治九年(1876)
自然石正面に篆書体で「聖徳太子」と刻む。『五日市の石仏』には「桶屋渡辺銀蔵/内倉清八」とあるが、今は土中埋没不読。なお、他に12名の姓名があるが、これも土中埋没か。

戸倉02-19
地蔵菩薩(六地蔵)
不明
横長四角の板状石の中央に中尊として大きく延命地蔵を彫り、その左右に3体づつ地蔵立像を浮彫りする。

戸倉05-28
顕彰碑・記念碑・文学碑
天保七年(1836)
市指定文化財。「ところ芋の碑」。天保の大飢饉の時、山野に自生するところ芋を採りに、他村の人々が入り込むのを禁じようとした村民をさとし、他村の人々にも自由にとらせた当時の名主萩原恵亮の得を顕彰した碑。

星竹01-09
万霊塔
明治16年(1883)
木の覆屋内に安置。珍しく「塔」の字を使っている。

星竹03-16
日待・月待塔
明治九年(1876)
黒山儀三郎は幕末から明治にかけての星竹の筏師。『儀三郎日記』を残している。田中銀蔵は山待ち、資産家で『儀三郎日記』を読むと資金面で儀三郎を助けている。「石工同人」とあるように文字塔を自ら彫るような器用な人でもあった。

星竹03-17
顕彰碑・記念碑・文学碑
明治三十三年(1900)
戸倉星竹の筏師(山持ちと契約し木を伐り出し、筏に組み、六郷や木場で売りさばくまで、全体をやりくりする)で、戸倉村の組頭、村会議長をつとめ、特に明治5年の地租改正では地方調係(ぢかたしらべがかり。各戸の所有地の地番・地目・等級・面積等を調べ、地租の基礎資料を作成する係)として活躍するなど、戸倉村政に重要な役割を果たした。

星竹04-02
庚申塔
延享四年(1747)
日天・月天。青面金剛は剣・宝珠・合掌・蛇・索を持つ。宝輪の代わりに宝珠を持っているのは珍しい。前出し部の下に小さいながら三猿を刻む。

星竹04-06
その他
弘化四年(1847)
10段の石段。向左側の袖石に「弘化四年」とあり、石段はその当時のものと思われる。

盆掘01-04
馬頭観音
文政七年(1824)
観音像の腰あたりで二折している。女人講中による馬頭観音の造立は珍しい。

盆堀03-45
経典供養塔
天保十五年(1844)
光明真言信仰は真言宗によって広められた。特に興教大師覚鑁の新義真言宗では阿弥陀信仰を取り入れると同時に光明真言を唱えることの功徳を説いた。西蓮寺は新義真言宗の大悲願寺の末寺である。
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